固定とは
主な固定法とその原理・利用
1)
アルコール固定 precipitation
2)
ホルマリン固定 cross-linking
3)
ピクリン酸固定 picric acid
4)
その他の固定法 HOPE, PAXgene
参考文献
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固定とは
組織学における固定 fixation とは、生物試料を自己分解 autolysis や腐敗 putrefaction
による劣化から保護するための化学処理をいう。固定により組織中の生化学反応が停止する.これにより,細胞の構成成分である核酸,タンパク質を,物理的・
化学的に安定な状態に保つ.結果的に細胞・組織形態を保持することができる。固定された試料はそのまま標本として保存されることもあるが,病理では,通
常,固定後に包埋・薄切・染色などを経て顕微鏡標本として観察される。
エジプトのミイラは炭酸ナトリウム(アルカリ)で腐敗を防いだ
常温で3000年以上経過した後もDNA解析が可能だった
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病理組織標本における固定に求められる条件:
1) 組織・細胞形態の保持(もっとも重要)
内因性および外因性のタンパク質分解酵素の不活化が必須
これには殺菌とウイルスの不活性化が含まれる
2) 核酸・蛋白の性質の保持(近年重要)
a) 組織化学染色が可能であること
b) 免疫組織化学が可能な抗原性を保持すること
c) 核酸配列の解析が可能なDNA, RNAの保持
d) 質量分析などでの解析が可能であること
3) 人工的な構造物を産生しない
4) 常温で長期保存できること(冷凍庫など低温保存が可能なら固定しなくても保存できる)
包埋は固定に含まれないが,
「脱水」「脱脂」「脱酸素」を実現する
パラフィン包埋は固定操作を補強している
常温で組織を長時間保存できる.軽い.毒性がない.
いいことずくめである.ただし火には弱い. |
5) 比較的安価な試薬・装置で固定できること
【主な固定法とその原理・利用】
これまで考案された固定法のうち、ホルマリン固定(アルデヒド固定)とアルコール固定がもっとも一般的。
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1) Precipitating fixatives 凝固(変性)による固定:代表はアルコール
アルコール固定
細胞診,Papanicolau 染色用の固定.
原理:
有機溶媒 organic solvents (エタノール,メタノール,アセトン,クロロホルム)は,
タンパク質の溶解度を減少させ,疎水結合を破壊することで酵素を不活性化させる
すべての有機溶媒は生物にとって毒性がある
高温や乾燥に耐える クマムシ ですらエタノール中では死滅
(Ramløv H et al. Zool Anz 2001) |
利点1: グリコーゲンの保持が良好である.
利点2:固定力は弱く,可逆性がある→ 免疫組織化学に適している
欠点:脱水により組織を収縮させるため,長時間の固定は形態保持の点で問題がある.
この欠点を克服するため
酢酸 acetic acidと併用する固定液が用いられることがある.
cf. お酢 acetic acid, vinegar:
食物の固定(保存)によく使われる.標本の固定液の成分としても使用される.
水を吸収して
細胞を膨化させるため,単独では組織の固定に適さない
DNAを核タンパクから分離する.
核酸の保持に適する.染色体分析(G-band)の固定液に使うカルノア液の成分の1つ
cf. Giemsa 染色の際の「
乾燥」も固定操作の一種といえる(原理は脱水)
air dry 風乾 は、血液や髄液中の細胞の塗抹標本、穿刺吸引細胞診 (ROSE)
や術中捺印細胞診などで使用するディフ・クイック染色 Diff-Quik stain™(Giemsa
染色の一種) 時に用いられる。冷風に設定したドライヤーで急速に乾燥させる。その後にメタノール(これも脱水)で短時間固定する。
細胞はガラス上に広がった形で固定されているため、剥がれにくく、またガラス上に大きく広がっているため見やすい。
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2) Crosslinking fixatives 架橋結合による固定 代表はホルマリン
ホルマリン formalin 固定(
ホルムアルデヒド formaldehyde 水溶液)が組織固定に圧倒的に広く用いられている.
ホルムアルデヒドは
常温で気体である(沸点:マイナス19℃).
ホルムアルデヒドの
飽和水溶液を10倍に希釈したものが10%ホルマリンである.
ホルムアルデヒドはアミノ基(タンパク質)の間に
メチレン架橋形成 methylene bridge formation することでタンパク質を硬化・安定化させる。具体的には、ホルムアル デヒド (CH2O) が1分子の水と結合して CH2(OH)2 になり、そのH基とOH基が、タンパク質などの分子とメチレン結合 methylene bond を作る。
メチレン架橋 methylene bridge crosslinking
2R-NH2 + HCHO → R-NH-CH2-NH-R + H2O
2R-OH + HCHO → R-O-CH2-O-R + H2O
2R-SH + HCHO → R-S-CH2-S-R + H2O |
cf. 瞬間接着剤でおなじみの シアノアクリレート cyanoacrylate は、空気中の水分で重合反応(メチレン架橋)を形成して急速(数秒)に硬化する。ホルマリンによるメチレン架橋形成は遥かに遅く、数時間を要する。
利点1:ホルマリンによるメチレン架橋は短時間の固定では不安定(可逆的)で,
ホルマリン固定標本は種々の組織化学染色や免疫組織化学に適している.また核酸抽出も可能である。 3 mm程度までの検体は数時間で固定される.
固定時間が短すぎると、固定が不十分になることがある。短時間の固定標本は脱水の過程で収縮傾向が強い 移植肝生検の当日作製標本では、最大20%程度の
縮小がみられる。
手術時の郭清リンパ節のように、数日浸漬されたリンパ節では、スライスしていなくても十分に固定されていることがあるのに対して,大きなリンパ節生検検体
は
固定不良が起こりやすい
→ 悪性リンパ腫診断のためのリンパ節生検の場合は2-3 mmスライスにする必要がある.
一方あまり長時間固定してしまうと「過固定」となり染色性が阻害され組織標本用には望ましくない
「完全な固定」(病理業務的には「過固定」)には1-2週間を要する
HE染色用の固定は3-6週間が限界とされる
酸性ホルマリンでは,しばしばホルマリン色素(黒褐色色素、酸化ヘマチン、ギ酸とヘマチンから生成する)が出現して顕微鏡標本にしたときに観察の邪魔になる
病理部門では,
10% neutral buffered formalin fixative 10%中性緩衝ホルマリン固定液が広く用いられている.
中性緩衝ホルマリンは、ホルマリンに,リン酸二水素ナトリウム、リン酸一水素ナトリウムを加えて,pH約7.4に調節したもの(安定剤として1%前後のメ
タノールを含有することもある)。ホルマリン色素が出にくい利点があるが、もっとも大事な目的は、
ギ酸による核酸の損傷を防ぐこと。そのため、遺伝子解析用を前提とした病理業務においては中性緩衝ホルマリン液を使用する。なお固定力は非緩衝ホルマリンと比較するとやや弱くなる。
利点2:アルコール固定に比べると,組織の収縮の程度が少ない.
利点3:安い(EtOH >MeOH >> CH2O)
1890年代に工業的にホルムアルデヒドが大量に合成できるようになった→医療への応用
ドイツの医師 Blum が,消毒薬として使って,自分の指が「固定」されたのに気づいた
(Blum F. Der Formaldehyd als Härtungsmittel. Z Wiss. Mikrosc 1893).
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ホルマリン固定の注意点
1) 液量は組織片の(5~)10倍量は必要.
小さな瓶に詰め込んではいけない...固くなった組織が取り出せなくなる
2) できれば振盪する(特に,大きな組織や,血液の多い組織の場合)
3) 固定は
室温でおこなう.高温固定するとタンパク質が変性する.
4) ホルマリンは
揮発性で毒性がある(
ホルマリン の項も参照のこと)
固定後の組織の切り出しには,事前に十分水洗し,取り扱いはドラフトチャンバーの使用が望ましい.
† メタノールを飲むと,
網膜でホルムアルデヒドとギ酸が大量に作られ、視細胞を傷害して失明する
† 接触性皮膚炎,結膜炎・鼻咽喉炎を引き起こす.難治,あるいは不可逆的な傷害を来す可能性あり
† アレルギー性反応(皮膚,喘息)
† 発がん性があるとされる(動物実験?)
★ 取り扱い室では屋内の十分な換気が必要.
★ 平成21(2009年)年3月1日より、ホルムアルデヒドについて
作業環境測定の実施が義務付けられた.
§ ドラフトチャンバー外の
管理濃度は、0.1ppmである(0.1 ppm以下でなければいけない)。
§ 0.2 ppmを超えていれば,その部屋で作業してはいけない.
§ 0.5〜0.8 ppm を超えないとホルマリン臭に気づかない → ホルマリンの管理には,測定器による測定が必須.
cf. グルタールアルデヒド固定【電子顕微鏡用】
電子顕微鏡用の標本固定に用いる.
形態保持の点でホルマリンより優れているが,浸透性・染色性ではホルマリンに劣る。またホルムアルデヒドより重合化しやすい。
小さい(1~2 mm
角)組織片とする.固定はパラホルムアルデヒド(高分子ホルムアルデヒド、単体は室温で固体)を併用して、低温(4℃)で行う。四酸化オスミウム
OsO4 での後固定により、脂質が良く固定される。脱水後は、より薄く薄切するために、パラフィンでなく、より硬い樹脂に包埋する。
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3) ピクリン酸固定
ピクリン酸 picric acid 固定は架橋と凝固の両方の性質を持つ.代表は
ブアン液 Bouin's solution
1990年代前半まで?京大病院ではブアン固定が骨髄生検や,精巣生検で用いられていた。
取り扱いが面倒だし,免疫組織化学のことを考えるとホルマリン固定の方が応用が効く.
京大病院でいまでもピクリン酸が使われているのは腎生検のデュボスク・ブラジル液(Duboscq-Brazil liquid) 固定だけ.
デュボスク・ブラジル液は,アルコールブアン液(alcoholic Bouin's
liquid) の一種
アルコール,ホルマリン,ピクリン酸,酢酸の混合溶液
(cf. Brasil. Archives de zoologie expérimentale et
générale, vol. 2, p. 445, 1904) |
浸透速度はあまり速くない.約8時間で,3~5 mm浸透する.
利点1:デュボスク・ブラジル液を含めたブアン系の固定液を用いた固定では
形態保持が良好である.
主に塩基性アミノ酸と反応して蛋白を凝集させる。
魚類や節足動物の標本作製では、ホルマリンの組織浸透力が不十分なため、ピクリン酸・酢酸がタンパク質を急速に凝固させるブアン/アルコール・ブ
アン固定が好まれる。軟体動物だと昇汞加ホルマリン系固定液(塩化第二水銀を含むホルマリン固定液)が良いらしい。リンパ系腫瘍でもかつて B-5
など水銀を含む固定液が好まれた時期があったが、環境汚染の問題からほぼ使用されなくなった。もちろん、ふつうのホルマリンも流しに捨ててはいけない。使
用済みホルマリンは有機系廃液として回収。
ブアン系の固定液では、核クロマチンが核膜や核小体周囲に濃縮するアーチファクトが生じるため、核のコントラストが良くなり、くっきりした感じで核の性状
やウイルス封入体が観察しやすく感じられる。後からホルマリン固定標本を見ると、ホルマリン固定HE標本がぼけてみえる。
利点2:
膠原線維染色が良好(ライト・グリーン,アニリン・ブルーなどの酸性の染色液)
cf. コラーゲンの等電点 isoelectric point は 高い(pI
9くらい).
コラーゲンでは,酸性基を持つグルタミン酸,アスパラギン酸の約1/3がアミド化
(カルボン酸のOHをNH2で置換)されているため(http:
//www.nitta-gelatin.co.jp/gelatin_labo/5_2.html).
.
利点3:
PAS染色良好 ピクリン酸は,炭化水素(グリコーゲン)に影響を与えないためグリコーゲンの保持が良い。
欠点1:ピクリン酸は
可燃性あり(ニトロ化合物,
爆薬!).
必要時に調整する必要がある.
欠点2:ピクリン酸や酢酸は
核酸を分解する.
核染色,遺伝子解析に不向き.
一般的には
免疫組織化学にも推奨されていない.
個人的な意見:あえてデュボスク・ブラジル液固定を使用しなくても良いのでは。溶血するし...
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4) その他の固定法(
ホルマリン の項も参照)
● HOPE® (Hepes-glutamic acid buffer mediated Organic solvent Protection Effect) Fixative System (富士フィルム和光純薬株式会社)
● PAXgene Tissue System (株式会社キアゲン QIAGEN)
HOPEや,
PAXgene 固定法は形態保持・免疫組織化学・核酸保持のすべてにおいて優れていると宣伝している。いずれも薬液が高価であり、固定操作に薬液交換が必要であるなど煩雑であるため、通常病理業務のホルマリンを置換するほどには普及していない.
昔、京大病理部では換気不良の臓器保管庫への対応としてホルマリン固定後の臓器保存にアルテフィックスを使用したことがあった。臭いが気持ち悪い,核抗原の免疫染色性が低下する、などの理由で使用しなくなった...
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主な参考文献
URL:
http://stainsfile.info